令和7年秋季彼岸会法話

御講法話

【彼岸について】
 彼岸とは、梵語・パーラミター(波羅蜜多)を音写した言葉です。迷いと苦しみの多い此岸に対して、彼岸は安らぎの多い涅槃を意味し、仏の境界などを意味します。
 春分・秋分の日を中日として、前後3日を彼岸とし、春分・秋分の日は、昼夜の長さが等しくなることから、中道を重んじる仏教徒に特に重んじられる行事です。彼岸中日には此岸・彼岸が近くなると解釈し、亡くなられた方へ追善回向申し上げます。
 また、春は草花が芽吹く時期であり自然に感謝し、秋は作物の収穫の時期でありますので、作物への感謝といった意味も込められ、自分があらゆるものに生かされていることへの感謝を再確認する行事として定着しています。

【中道とは】
 中道について、簡単にご説明したいと思います。中道と一言で言っても、その意味は多岐にわたりますが、今回は原始仏教での意味をお話します。インドに生まれた釈尊の時代は、欲望のままに過ごす〝快楽主義〟と、欲望や煩悩に溺れるのは悪いことで苦行によって滅尽しようとする〝苦行主義〟という二つの片寄った思想がありました。この二辺を捨てることにより正しい智恵を完成し涅槃におもむく道を示すことを中道といいます。
 最近、清涼院には仏教に関連する本や、私が読まなくなった本などを本堂に置いてご自由にお読みくださいコーナーを設けています。そこに手塚治虫の『ブッダ』という漫画を置いています。漫画でありましてエンターテイメントですので脚色はありますが、釈尊の生涯に触れる入門としては非常にわかりやすい内容です。
 その漫画『ブッダ』の中で手塚治虫さんは釈尊に次のような台詞を言わせています。
「欲に溺れるのは愚かだ。しかし自分を苦しめるのに夢中になるのも愚かじゃないのか?そんなことで人間は救われないのではないか。」(手塚治虫 ブッダより)
 この言葉は、快楽主義・苦行主義の二つの執着を捨てて、一切衆生が等しく救われる教えを求めた釈尊の苦悩が垣間見えます。
 世間に目を向ければ、昨今は意見や主張の分断が非常に目立ちます。政治の世界では右派・左派という思想があり、極端な思想を極右・極左ともいいます。その中間には中道派という思想もありますが、最近は右派・左派のどちらも排除する極中道なんて言葉もあるようです。仏教用語の中道という言葉が使われながらも仏様の真意を離れた意味として極中道という言葉が世間に広まるのは困ったものだなと思っております。

【なぜ法華経でなければ救われないのか】
 少し話がそれてしまいましたので、私たちの信じる法華経、大聖人の教えについて話を戻します。法華経には、老若男女の区別なく、また生きている者も人生を終えた方も、それらの区別なく、一切衆生が成仏できるという教えです。
 仏教にも色々教えがありまして、女性は成仏出来ないとか、今世では成仏出来ないとか、愚か者は成仏出来ないとか、そういった教えもたくさんあるんです。
 詳しく中身を読まなければ仏様の経典の意味は分かりませんし、私も全ての経典に目を通したわけではありません。
 〝鰯の頭も信心から〟ではありませんが、経典に何が説かれていても、まあとりあえず何でも良いから拝んでおけ、よくわからないけど信じてみるか、という信仰の方も最近は多いかなと思うんです。
 教えの中身は分からないけども、とりあえず信じてみるという信仰観であっても、実際救われる方がいるのも事実です。しかし、例えば今自分の人生が終わるかもしれない時に「どれ、ちょっと拝んでいる経典の意味でも調べてみるか」といって調べてみたら、女性は成仏できないとか、賢者しか成仏出来ないとか、私たち自分自身の成仏が説かれていない経典であった、なんてことになったら目も当てられません。死を目の前にして不安や焦りが出てきて、それこそ地獄の苦しみを感じるのではないかと思うのです。
 『法蓮抄』という御書の中で大聖人は「法華経に説かれる久遠の釈尊は、一人も漏らさず一切衆生を成仏させるために長い修行をした。」と仰せです。法華経は私のような愚か者も見捨てずに成仏出来ますよと、説いていますので、私たちは法華経、そして大聖人の教えを信じていくことが肝要であります。

【回向とは】
 私も先月母を亡くし、また小さな頃からお世話になった御信徒をここ数年で何人も見送ってきました。
 現実の娑婆世界で、生涯を全うした方と直接お目にかかることはできませんが、亡くなられた方はきっと霊山で見守っていてくださっていると私は思いますし、亡くなられた方がおられる霊山は安穏な世界であろうと思うのです。
 そして何より霊山で過ごされている方達が望んでおられるのは、私たちが一切衆生の成仏を願って南無妙法蓮華経とお題目を唱えて、苦しみや悲しみの多いこの娑婆世界を力強く生きていくことを願っておられると思います。霊山へ旅立たれた方に安心していただけるように、今世でしっかりとお題目を唱えて、その修行の功徳を故人へ回向することが大切であると思います。

【自分たちの死後に思いを馳せて】
 そして、私たちもいつかは人生を終えるときが必ず来ます。その時に、娑婆世界にいる縁者の方々が自分も他人も救うことができる南無妙法蓮華経の信仰を持ってくれれば何よりの安心なのですが…これがなかなか難しいことですね。血の繋がった家族とはいえ、信仰を伝えていくことは難しいことです。
 そこで最後に『開目抄』の御文をお伝えして終わりたいと思います。
「納得した死別なんてあり得なくて、私たちは必ず死を迎えるのだから、法華経を信じ切って、たとえその結果命を落としたとしても、嘆くことはありません。自分自身が霊山へ参って成仏を果たして、その霊山から娑婆世界にいる家族を導いてあげなさい。(意訳)」と仰せです。
 子や孫、知人などが自分たちの死後も法華経を信じてくれればそれは何よりです。しかし、法華経にも説かれていますが、世の中のどんな事よりも困難なのは人の心を動かすことです。まして、現代において法華経を信じてもらうことは、本当に難しいことだと思います。
 自他の成仏の為に法華経を伝えていくことが大切なのは当然ですが、どれだけ努力してもかなわないこともあります。その時は、今の『開目抄』の御文のように、自分自身が成仏を果たして霊山から導いてあげると覚悟して、信心修行に励むことも一つの救いではないかと思うのです。
 少々話が雑然としてしまいましたが、要するに本日何を言いたかったのかというと、お題目を唱えて信心修行することが何よりの回向ですよ、ということがお話したかったのです。
 皆様には、今後も共に信心修行に励んでいただきたいとお願い申し上げます。
 これから北海道は寒くなります。体に気をつけ精進ください。

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