
住職挨拶
令和八年初御講にあたり、多くの皆様とともに読経唱題を修めさせていただきました。足元の悪い中、ご参詣いただき誠にありがとうございました。
本稿では、初御講に拝読した御書を通して、変化の激しい現代を生きる私たちの指針についてお話しした内容を、寺院ホームページ用として掲載しております。
揺らぐ時代の中で、何を拠り所とするか
年明けから、国際情勢は大きく動き、各国の対立や国際秩序の揺らぎが日々報じられています。昨年は戦後八十年という節目を迎えましたが、八十年という歳月の中で、これまで支えとなってきた様々な秩序が形骸化しつつあることを、私たちは改めて突きつけられているように感じます。
無秩序へと傾きかねない現代において、私たちは何を指針として生きるべきなのか。その問いを、今こそ一人ひとりが真剣に見定める必要があるのではないでしょうか。
鎌倉時代を生きられた宗祖・日蓮大聖人は、公家社会から武家社会への転換期、さらには蒙古襲来という未曾有の国難に直面された、不安定な時代を生き抜かれました。蒙古襲来に際して大聖人は、惨殺された人々の冥福を祈り、襲来の恐怖に怯える民衆への深い憐愍の情を示されました。
その一方で大聖人は、蒙古襲来を単なる災厄としてではなく、「大悪は大善の来るべき瑞相なり(減劫御書)」と捉えられています。ここでいう「大悪」とは蒙古襲来を指し、「大善」とは法華経の教えが正しく弘まることを意味します。
当時の日本では、禅宗や念仏宗が広く信仰され、政治の面では北条得宗家と呼ばれる一部の権力者による強い支配体制が敷かれていました。そのような状況を根本から変えることは、決して容易なことではありません。
それでも大聖人は、正しい教えをないがしろにする国の行く末を深く歎かれつつ、既存の秩序が崩れた後にこそ法華経が真に弘まるという希望を見いだされていたのではないかと拝察されます。
現代において戦後秩序の再構築が求められている今、宗祖日蓮大聖人が示された法華経の教えを、改めて私たちの拠り所としていくことが肝要であると感じます。
初御講に拝読した御書について
本日は初御講でございますので、正月の通例として『重須殿女房御返事』を拝読いたしました。
この御書の冒頭には、
「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は、月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあいせられ候なり。」
と示されています。正月はあらゆる「はじめ」であり、物事の根本や初心を大切にする人は、自然と人々から敬愛され、徳も積まれていくのだと説かれています。
またこの御書では、地獄や仏とはどこにあるのかという、非常に重要な問いについても言及されています。その結論として大聖人は、「地獄も仏も、実は私たち自身の心の中にあるのだ(取意)」と仰せになっています。
さらに地獄の心の具体例として、「両親を侮り、疎かにする心こそが地獄である」と示されます。これは非常に分かりやすく、私たちの胸に迫る表現です。
私たちは両親があってこそ、この世に生を受けました。もちろん、すべての家庭が同じ事情ではありませんが、お世話になった方々への感謝を忘れているとき、私たちの心は知らず知らずのうちに傲慢さに傾いているのかもしれません。そのようなときこそ、自らの心を静かに見つめ直すことが大切なのではないでしょうか。
仏様への感謝の心を大切に
両親や身近な方々への感謝はもちろん大切ですが、さらに一歩進んで、仏様への感謝の心を持つことができれば、なお尊いことであると思います。
亡くなられた有縁の方の成仏を願うとき、また自らの人生の指針を求めるとき、私たちが拠り所とするのは仏様の教えです。その慈悲こそがすべての根本であると心に刻み、報恩感謝の思いで信仰を深めていくことが、成仏への確かな一歩となるのではないでしょうか。
日々の言葉と心の在り方
『重須殿女房御返事』には、次のような印象深い御文があります。
「わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。」
世間でも「口は災いの元」と言われますが、不用意な一言によって信頼を失う例は、現代においても少なくありません。一方で、どれほど恵まれた環境にあっても、ありがたいと感じる心がなければ、幸いを幸いとして受け取ることはできません。
この御文は、私たちの心の在り方こそが、人生を大きく左右するのだという真理を、簡潔に示しているように思われます。
日常の中で育まれる信仰
この教えは、マザー・テレサの「思考は言葉になり、言葉は行動に、行動は習慣に、習慣は性格に、そして性格は運命になる」という言葉にも通じます。
日蓮大聖人は、難解な教理を理解できなくとも、「ただ手を合わせ、南無妙法蓮華経と唱えなさい。必ず成仏できる」と人々に示されました。唱題という行いが習慣となり、やがて仏の境涯へと近づいていく──これは、行動が人生を形づくっていくことを教える、極めて分かりやすい仏法であると言えるでしょう。
実際、信仰に縁した多くの方々は、最初から強い確信をもってお題目を唱え始めたわけではありません。家族や友人との縁をきっかけに唱題を始め、次第に大聖人の教えを求めるようになった、という方が多いのではないでしょうか。御講に参詣される姿そのものが、行動が習慣となり、心や生き方を変えていく尊い実例であるように思われます。
笑顔がもたらす功徳
フランスの哲学者アランは、「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ」と語っています。仏教においても、笑顔の大切さは古くから説かれてきました。
無財の七施と呼ばれる、金品によらない布施の教えの中には、優しい眼差しで接する「眼施」、思いやりの心をもつ「心施」、そして笑顔で人に接する「和顔悦色施」が説かれています。難しく考えることなく、穏やかな笑顔で人と向き合うことは、尊い修行であり布施となり、自他問わず救いとなるのです。
お題目を根本として歩む
本日は初御講にあたり、「はじめ」や「根本」を大切にすることを説かれた『重須殿女房御返事』を拝読し、さまざまな教えを通してお話をさせていただきました。
改めて大聖人の教えを見つめ直しますと、何よりの根本の修行は、南無妙法蓮華経と唱える唱題にあることを、深く実感いたします。お題目には、妙法蓮華経の教えに帰依するという意味が込められています。そしてその教えには、「一切衆生が必ず成仏できる」ことが明確に説かれています。
お題目を繰り返し唱える中で、知らず知らずのうちに自他の成仏を願う心が育まれ、その願いは必ず成就すると断言された大聖人の仏法は、誠にありがたいものです。
結びに
変化の激しい時代だからこそ、法華経の精神と日蓮大聖人の教えを根本として、日々の唱題を大切にしてまいりましょう。
皆様とともに、仏様の慈悲に感謝しつつ、穏やかな歩みを重ねていけることを願っております。
