今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見るなり。たとへば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども、果報にしたがて見るところ各別なり。此の法華経の文字は、盲目の者は之れを見ず、肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く「若し能く持つこと有らば、即ち仏身を持つなり」等云云。
【拝読御書『法蓮抄』の執筆背景】
『法蓮抄』は、法蓮上人という大聖人の檀越に宛てられた御書です。法蓮上人のお父様は十三回忌に際し、追善の為に自我偈を読経して回向したと大聖人に報告しまして、その返事のお手紙が法蓮抄という御書です。
御拝読しました御文では、法蓮上人が父の為に読経した法華経の経文は、私たちにとってはただの文字であるけれども、一文字一文字が仏様でありますからその功徳は大変尊いものです、と教えています。
ここで、一水四見という「同じ水でも見る人によって捉え方が違う」という仏教説話が引かれています。一水四見とは、大変わかりやすい教えですので、世間でも「手を打てば 鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池」という歌もあります。確かに、水にしても手を打つ音にしても、見聞きする者の受け止め方で変化いたします。
私はNHKのブラタモリをたまに見るのですが、知識がない人が見るとなんの変哲もない景色でも、歴史や背景を詳しく知る専門家が見ると貴重な景色となります。教養や知識を蓄えた人は、世界の見え方も違うのかもしれません。
『法蓮抄』では、「法華経の文字は、盲目の人には見えず凡夫の肉眼は黒い文字と見る。声聞縁覚の二乗は虚空と見て、菩薩は様々な色と見て、仏種が整っている人は仏様と見るのです。」と仰せで、私たちには黒い文字に見えるけれども、一文字一文字が仏様であるので、その経文を読経することの功徳は大変大きいものである、と私たちに御教示です。
【一番愛おしいのは誰?】
ここで一つ仏教説話を紹介いたします。
古代インドにあったコーサラ国王のパセナーデ王(婆斯匿王)は、愛する妃に「誰を世の中で最も愛しいと思っているか」と聞きました。彼は妃が、王のことを愛しいと思っていると答えてくれるのを、期待しておりましたが、妃は一瞬ためらいながらも「この世で最も愛しいのは自分です」と正直に答えたのです。それを聞いてパセナーデ王は、ガッカリしましたが、「その通りかもしれない。実は私も、自分自身が一番愛しい」と答えました。
それから二人は釈尊のもとにいき、「お釈迦さまはいつも、自我を捨てよ、とお説きになりますが、私たちは自分が愛しいので、自我を捨てることができません」と打ち明けました。釈尊は「自分を一番愛しいと思うことは、人間にとって当たり前のことなのだよ。ただし、それに気がついたら、他人の自我も自分同様に大切にしなければならないのだ。すなわち他人の心を傷つけたり、又他人を殺したりしてはならないのだ」と諭されたのでした。
この説話は、利他の大切さを説く仏教の中で、少し異色の説話に感じますが、自分の事を大切に思うのと同じように他人も尊重することの大切さをこの説話が教えてくれていると思うのです。
【おわりに】
一水四見やパセナーデ王の説話のように自分と相手の考え方、感じ方の違いを認めて尊重することができれば、もう少しこの娑婆世界も過ごしやすくなるのではないかなと思います。
本日お話申し上げたかったことは、解釈や考え方の違いを尊重できるような心をもっていただきたいということです。ただ、いろんな解釈や考え方を尊重するだけでは自分の考えもなく、中途半端になってしまい、かえって迷いを強くしてしまいます。そのためにまずは、自分自身の軸となる考え方が必要なのですが、その軸こそ、大聖人様の教えを信じてお題目を唱えていく、ということであります。
どんなときでもお題目を唱えて仏様に感謝申し上げるという信心を根幹に忘れなければ、自然と自他を愛する慈悲の心が顕れるはずです。
本日御拝読した法蓮抄には「法華経の文字は、人にはただの文字に見えるけれども、一文字一文字が仏なのです」と仰せのように、4月の御講に皆様と共に読経・唱題できましたこと大変ありがたく思っております。その功徳は大変尊いものでありますので、どうか今後も変わらず共に信心修行に励んでいただきたいと思います。
